ごあいさつ2023→2024 または、タイムシフトという現代人の権利について

2023年もいろいろとお世話になりました。
2024年もまたよろしくお願いいたします。

ブラッシュアップライフ、リバー流れないでよ、最高の教師、時をかけるな恋人たち…、今年も”時間もの”をたくさん堪能しました。葬送のフリーレンも時間ものだなと思うし、機内映画で見たTENETはミノくらい歯ごたえありましたね。
時を戻そう、と思う場面はいくらでもあるけど、実際には戻せるわけではない、その歯噛みが”時間もの”へ向かわせるのかもしれない。

と言いつつ、でも幾分かは時間の壁を越える術を、「タイムシフト」というかたちで我々は手に入れつつあるようです。
数年前から自宅に導入した、テレビの全チャンネルを24時間録画するレコーダーは、特に事前告知も手薄く放送時間帯もふわっとしたドキュメンタリーなんかで、あとからTwitterとかで「あれは良かった」などと目にして、かつてなら時間の壁に阻まれてあきらめるだけのところを、全録の中からサクッと掘り出して、なんならその場でスマホからアクセスして空間の壁も越えて見れる、というのがそのひとつかなと。まあこれも、見逃し配信や動画サービスやYoutubeやのほうが先を越して普及してるんでしょうけど。

それとオンライン配信、これがリアルタイムだけでなくアーカイブでも配信されることで、空間の壁だけでなく時間の壁もある程度越えることができるようになったんだな、と思えます。コロナ禍って、とんでもない禍でしたけど、それをきっかけに急速に普及したな、と。授業や会議、学会・研究会やシンポジウム・講演の類。コロナ禍当初なんか、むしろ数多くて忙しいくらいだったり、いままで行けてなかったり数年ぶりだったりという会にも行けたりで、実は結構な恩恵を受けてたりして。
興行場所がほぼ東京な演劇も地方にいながら鑑賞できるようになったし。海外の学会なんか、大枚はたいて何日も使ってしてしか参加できなかったのを、これもサクッと参加できるから、いままで参加できてなかった、そもそもするべくもなかったような人でも、気軽に顔合わせたり議論に参加できるようになったりして。

ああ、やっとこういう時代に、デジタルにトランスフォーメーションしたトランスフォーマーになれたんだなあと。

………思ってたんですけど。

なんでしょう、コロナの扱いが低くなった途端(注:沈静化したとは認識してない)、あの会やこの会やが、また現地対面オンリーに逆戻りっていう。多少はあろうと思ってましたが、こんなにも多いものかと。日本だけでなく、アメリカのあの集まりもヨーロッパのあの会も。なんなら、DXやAIやデジタルアーカイブをテーマとする会で、え、現地対面なの、と。で、東京なの、平日昼間なの、と。
その喪失感、ああそうだ、喪失感ですね。コロナ禍前で手に入るべくもなかった頃ならまだ無自覚無感傷だったものが、いったんその果実の味を知ってしまったうえで、なんかふわっと引き下げられてるという、喪失感もひとしおという感じがどうしてもします。いや、そっちの「時を戻そう」を望んでたわけじゃないんですけど、っていう。

アナログメディアがいいかデジタルメディアがいいかという類のお定まりの論争は21世紀が1/4になろうとしても尽きる気配はないし、尽きる必要も特にないとは思うんですが、どっちにしたって、併存できるなら、選択肢が多いままでいられるならそれにこしたことは全然ないんじゃないかと思います。メディアの違いってそういうもんじゃないですかね、国史大辞典や群書類従を1ページづつめくってはじめて身につくんだという人も、それじゃ困るんだという人も、どちらも気持ちはわかります。
で、じゃあ、現地対面の利点がそんなにもあるならというかそんなにも会いたくて会いたくてふるえるんだというんなら、ハイブリッドでもいいのカナと思うんですが、いや、現地オンリーしかない、と。ハイブリッドが技術的運営的にハードル高いのはもちろん身に染みて承知しているのですが、でももはやコロナ禍元年でもなく3-4年経ってるし、実際、ハイブリッドも課金制も限定アーカイブも調子良くやっていらっしゃるところはいくらもあるし、あたしみたいなデジタル手習いのはなたれ小僧でも、授業毎回ハイブリッドでやろうと思えばできるわけで。
なので、じゃあもう現地対面はあきらめてオンラインやハイブリッドの方を中心に参加しようか、というふうにも思うようになるわけです。その時間は勤務や家族の事情で参加できないんだとか、他にも責務を抱えてて部分的短時間しか時間をさけないとか、やっと参加できたと思ったら「続きは懇親会で」と当たり前のように言われるとか。そこに、タイムシフトや倍速再生の技術があるのなら、そっちに流れるのが人情だろうという。

それは、もったいない、という意味でもそうなんですけど、つまるところアウトリーチの問題だろうと思います。
多忙かつ多タスクなうえにやたら自己責任を問われる現代人にとって、定まった場所に定まった時間に居てられる、というのはある種の特権だろうし、空間/時間の壁を越えると言いますが、越えられるか越えられないかは個々人で違い、そしてその違いの幾ばくかは社会的要因が絡むという意味で、ある種の”格差”だろうと。ふだん意識しないけど。(時間や空間の格差としての意識しにくさは、何に起因するんでしょうね)
コミュニケーションを取り合い、知識知見を交換し合い、議論し合ってより良い次の知見を産み出す、ということをおこなおうとするその眼前に、何かしらの”格差”が江河大河のごとく横たわっていて、来てよその河とびこえてと言える既存の技術があるのなら、大阪城よろしく埋め立てて丸裸にしちゃいましょうよ、と。(特権を手放したくない人は、ハイブリッドなら手放さなくて済むし)

そう思うのは、それが、文書をのこしも情報を開示もしないとか、お仲間だけで議論を閉じて、密室で何かを決定するとか、その他大勢はそれにしたがっていればいいとか、だから発言もさせないし、ヤジもデモも記者も排除して冷笑してるとかいうのと、ゆきゆきては地続きだろうと、彼岸じゃなくおなじ岸だ ろうと、そう考えるからではあります。
年末に『大奥』見てたら、ジェンダーの壁の混沌とした幕府の人らが、身分や立場によらず広く意見を募って開国を議論しよう云々とおっしゃってましたが、時間・空間によらずの議論もできるといいな、って。そうやって、議論もライフもブラッシュアップできたらなって。

なんか、実はそういうことをずっとうっすら考えながら今年やったのが、日本とヨーロッパとでオンラインで議論するという「日欧DHクロストーク」ではありました。

日欧DHクロストーク2023
https://sites.google.com/view/ejdhxtalk20231107

他意はないながら白状すると、極私的にはDHも研究支援も生成AIもまあどうにかなるようになるだろうくらいにしか思ってなくて、それよりはむしろ、せっかくコロナ禍以降オンラインでミーティングすることが普及浸透したんだから、もっとそれを活用して、オンライン上にそういう場を設けて、ふだん会いそうにもなかった人同士でトークし、ふだん聴く機会もなかった土地や立場の人の話を聴き、国内の議論だけでは得られなかった知見ヒントを、交換、ていうか流通し合いましょうよね、ということをなによりも一番に考えてました。なので、動画やコメントの公開によるタイムシフトも実現できて、よかったなあ、って。

ということをふまえて。
配信もあります。リアルタイムも、アーカイブ視聴もあります。
コロナ禍の有無にかかわらず、「タイムシフト」は現代人の権利です、くらいの意識で念頭に置いておけるように。

言うと、書籍こそちょうど良い”タイムマシン”かつ”アウトリーチマシン”なので、生涯ライブラリアンしますとのたまった身としては、そう考えてそう志向するのは自然なことだと思っています。

という、まあ総じて、それくらい時間は大事ですよね、ということを考える年越しでした。

のこり時間もさほど潤沢ではないので。