大学教育において”教科書”って何なのか –「図書館情報資源論」を考えるシリーズ(3)
”教科書”ってそもそも何なのか(文科省的な意味をのぞく)、ということについては、前々からちょっとごにょごにょ考えてことがあったので、その書き留めです。
2025年の7月に”越境シンポ”と呼び慣わされるオンラインイベントがあり、お声がかって登壇したことがありました。
その年の3月に『ミュージアムの未来をつくる : 博物館情報・メディア論』(美術出版、2025 https://shop.bigaku-shuppan.jp/items/102868006)という本が出てて、それをふまえてディスカッションしよう、みたいな企画だったのですが、あたしはこれを献本いただいたときに御礼代わりにと思ってうっかりコメントをツイートしてしまったもんですから、これ幸いとひっつかまえられて、ライブラリー界隈からの登壇ということで呼ばれたようです、猫を殺すのは好奇心だけじゃないみたいですね。
その時のパワポが、以下です。
「ライブラリアンが見た「博物館情報・メディア論」」
参考まで、こういうことを考えて、言った、と覚えています。
—
・「博物館学」や「博物館」自体を、「情報」「メディア」という横串で再定義・再枠組みしたもの。これを読んでから博物館学全体を学ぶか、全体を学んでからこれを読んで再学習するか。
・L(図書館)の住人こそ読むべき、事例の宝庫。
・司書課程と学芸員課程でデジタルメディアの扱いが根本的に違う。
—
さて、ただ本記事の本論は↑これじゃなくて、その一番最後にくっつけるようにして述べた、しかし実をいうと極私的に一番言いたかった、さらには、実は本書を手にとったときからずっと考えてて、そもそも本書を手にとる前からずっとずっと考えてたこと。
”教科書”って、そもそも何なのか。
どういう機能を持つものを、”教科書”というのか。
出版社の本書の紹介文にも「これからの博物館像を念頭においた「博物館情報・メディア論」の教科書」と書いてるし、このシンポジウムでもたびたび「教科書として」的なことが言われている。そうでなくても、大学教育の現場でも図書館の文脈でも、誰も特に見咎め聞き咎める様子もなく。もはや空気のように「教科書」「教科書」と言っている。
でも教科書というのは「教科用図書」の略であり、それは文部科学省が云々検定が云々で、小中高までの範囲を言うのであって、高等教育では広義的になんとなく「教科書」と言ってる風しかなくて、定義なり規定なりがあるわけじゃないはず。
そこへきて、部外者としてこの本を示されて、「教科書として作りましたので、コメントしてください」と求められたとき、うん、えっと、じゃあその”教科書”ってそもそも何なんだっけ、という、かねてよりごにょごにょ考えてた疑問が一気に鎌首をもたげてくるわけです。
本来、大学・高等教育って、小中高のように既知の事実を教え込むものじゃない(注:まあ小中高もそうじゃないにしろ)ので、書いてあることを教えるのが教科書なんだ、とはなり得ず、言ってみれば場にそぐわない。ただ、大学でおこなわれる教育の中でも”専門”や”教養”ではなく、”基礎”の教育には教科書は存在し得る。そういう意味では、小中高では学習の一定の到達範囲を示す教科書が、大学ではまだ予備知識に過ぎない、とは言えそうです。私にはスタートだったの、あなたにはゴールでも、ってことですね。
もうひとつ言うと、学芸員課程なり司書課程なりの”資格”を与えるための科目であり、文部科学省さんからカリキュラムを提示されてるような位置付けのあれなので、既知の事実を伝えるツールとして、ゴールが描かれている教科書が求められるのは道理ではある。ですが、学芸員や司書が実務的な職業でもある以上、最低点の知識レベルでまかなえるわけではないので、引き続きオンザジョブだろうが何だろうが右往左往しつつ自己研鑽してもらうべき、そのスタートに過ぎなくもある。
そぐわない大学という場所で、求められるのが道理の、ゴールでもありスタートでもある存在。それが、学芸員なり司書なりの科目の教科書なのかしら、と。え、なんか無茶な要求な気がしてきた。
ちなみに。大学や図書館の業界には「指定図書」と呼ばれる概念がありますが、まあ、個々の教員が個々に指定するという個々の行為をふまえているだけなので、今回は特に考えません。
で、↑こういうことを考えるのであれば、踏むべきステップとしては、高等教育の教授法なりファカルティディベロップメントなりの文脈上の文献を参照しなきゃなんですが、このときはそこまでの時間的余裕がなく、吾が輩が日常的に使える図書館蔵書は国際的に日本の文化を研究する文脈のものばかりという事情もあり、シンプルに、自分が長年ボンヤリと考えてきたことをふわっと言語化したに過ぎない、それが上記パワポにある以下の部分です。
—
「教科書」とは何か?
● 「教科書」の機能とは?
・自習教材 (読めば知識が獲得できる?)
・地図 (分野の全体像を把握できる?)
・辞書 (わからないところをひきにくる?)
—
ということを書いていて、後日、『法政大学FDハンドブック』というのをネットで拾ったのですが(注:法政大学FD推進センター、2007年発行、https://www.innov.nagasaki-u.ac.jp/teacher/files/fdhandbook.pdf、←なぜか長崎大学)、教科書の利点としてこんなふうに書いてありました。
—
1) 学生に授業の整合性と見通しをもたらすことができる。
2) 重要な概念や定理・定義を常に参照するために役立つ。
3) 学生が予習復習を行うことがより容易になる。
4) 教員がもし説明不足であったりしても教科書で補うことができるようになる。
—
・・・お、だいたい合ってる。ちょっとホッとしました。
1) が「地図」、2)が「辞書」、3)・4)が「自習教材」ということですね。
とはいえ、これらは必須の機能というわけではないこともわかります。そもそも大学教育における教科書については定義も規定もされてないから、そういう問題ではない。こんなこといいな、できたらいいな、くらい。無いならなくてもいい。
特に”自習教材”的機能については、ゴールを目指す場ではないんだとすれば特にいらないはずで、あるとしても基礎的な教育のゴールにすぎないので、さほど気にする必要はないだろうと。
ていうか小中高のそれも含めて、そもそも教科書って「自習教材」たり得ませんよね、って思います。むしろ逆で、自習教材たり得てる作りの教科書があればそれは、教科書のていをとった自習教材だろう、と思うくらい。
世界史や日本史の教科書にしろ理科系(egamidayさんは高校地学)の教科書にしろ、司書課程の教科書と呼ばれるものにしろ、あそこにかいてある文章を予備知識ゼロの人が初見で読んで理解できるようには、できてないはずです。あれは、すでにわかってる人が読んでわかる日本語、でしょう。
その分野において基礎として必須で伝達しなければならない情報を、誰ともわからない不特定の読者に対して、万人が一ミリも誤解するようなことなく、どこからどう読んでも非の打ち所が無い正確さで、日本語として不自然ではない文章にしなければならない。
いや、無理に決まってるやーん、と。そりゃ初見で読んでも、何言ってるかちょっとよくわからないのぺっとした文章、で終わって仕方ないと思います。
むしろそういう文章って、辞書や百科事典の文章に求められる要素と同じだろうな(注:三省堂をのぞく)、と考えると、辞書や百科事典が項目ごとに削りに削って仕上げた短文でできたもの、とするなら、教科書はそれを文量的にもまとまった文章にして、章立て構成もして、体系的俯瞰的な視点も併せ持ったものとして仕上げた、叙述的記述的descriptiveな文章。図書館学的に言えば大項目主義の。
そういう辞書(というかreference book)としての教科書は、ある程度わかってる人がわかんなくなったときにわかんなくなったところを、ひきにもどってくる、そういう存在だろうと思います。教科書を初見で読んだだけではなんのこっちゃわからん話を、授業・講義で口頭・板書・パワポ・補助教材といった複数メディアで理解して、しばらくして、え、どうゆうことだったっけ?というのを確認しにもどってくる。そこで初めてあののぺっとした文章でも、ああそうそう、そういうことだ、と理解できる。
だとすれば。
道に迷ったときに、どこ見ればそれが書いてあるんだろう? というのがスッとわかってパッと戻ってこれるような、地図が必要になります。
教科書は、大項目主義的に書いたdescriptiveな文章を体系的俯瞰的に把握できるように配列する、だけでなく、その配列の道案内も初学者に向けてできていてほしい。目次とか、章立てとか、索引とかで。
良い教科書かどうかは、まだあまりわかってない人たちに対して、その「地図」がうまく描けているかどうか、で決まるんじゃないかなと思います。書いてある内容はなんなら二の次でいい。目次と章立て、小見出しの描写が成否のカギだ、くらいの勢いで。
ということを考えてかどうかはいまにしてはわかりませんが、シンポ当日のパワポにはこういうことを書いております。
—
●理論的な柱が明確
構成や見出しが抽象度高め?
→既にわかってる人には、わかる
これからわかろうとする人には厳しい?
→「教科書」より、
「教師用指導書」に吉?
—
緻密な地形図、縮尺無視の観光案内図、地図にもいろいろあるけれど、その本が示している地図がどんなものかによって、教科書云々以前にたいていの本はその機能が自然と決まっていくとするなら。
うん、やっぱ目次って大事だな、と思いました。話の趣旨が変わってますが。
その、「目次が大事」という話と、「司書課程と学芸員課程でデジタルメディアの扱いが根本的に違う」という話とを、どうやら当日メインで言いたかったらしいですが、じゃあ後者のほうについては以下にツイートその他からメモだけのこしておきます。
—
情報・メディア目線の横串で諸々のトピックを論じてくれるから、これを読んでから博物館学全体を学ぶか、全体を学んでからこれを読んで再学習するか、どっちがいいかな、という打ち上げ花火のようなことを考えたりしてる。
各科目の情報・メディア部分が論じられていくけど、ふとなんとなく幻聴がきこえてくる気がして、「各科目で情報化のことちゃんと扱ってくれてたら、ここでこれ言わなくてもいいのに・・・」っていう声が、ん、自分だけかな。
「博物館情報・メディア論」で扱うようなデジタルメディアに関するトピックを、司書課程では「図書館情報技術論」でというより、各科目の中で分散して遍在的に扱っている。これは文科省の文書上もそう。これって(どっちがいいかどうかとかではなく)お互いにもっと議論・意見交換されてもいいのでは。
—
今回参照した中でよかったなと思う文献は以下の通りです。
・芦田宏直. 『シラバス論 : 大学の時代と時間、あるいは「知識」の死と再生について』. 晶文社, 2019.
・アラン・ブリンクリ. 『シカゴ大学教授法ハンドブック』. 玉川大学出版部, 2005.
・『法政大学FDハンドブック』. 法政大学FD推進センター, 2007.
https://www.innov.nagasaki-u.ac.jp/teacher/files/fdhandbook.pdf