「図書館情報資源論」を考えるシリーズ(2): 一科目の授業の中に体系性は必要か必要でないか

 この科目の組み立てのことを考えていて、ふと、標題の問いが思い浮かんだのでなんとなく考えてみたことメモ。

 いろいろ見てたらいろんな人がいるみたいで、そんなの必要ないよ好きにやればいい、という人ももちろんいるだろうし、実際自由にやるなり学問の楽しさを実践してみせたりというやり方もあるだろうと思うし、一方それを受ける学生側にしてみたら裏構造のような体系性のことなんか関係ないだろう、という考え方もできるかとは思います。
 思うんですが、ただ、自分が受講する側の頃によく抱いてた感想が、あれ、この話別の科目の授業で同じこと言ってたなとか、矛盾してないかなとか、またこれやるのか重複してないかなとか、それが大事だから重複というよりは単に重複してるだけだろうとか、要は、科目と科目の間のすりあわせってどうなってるんだろう、という。もちろん、それが重要だから重複してるだけでなく。授業の設計は講師の裁量という原則なり、実務上すり合わせなんてできないということはわかるし、実際自分でもそうなんだけど、だとしても、なんというかな、受講していて、この人って自分のデスクトップだけ見て話してないかな、という印象を受けることも正直まあまああって、そうなるとなんか興醒めするし、逆に話すときにはそう思わせたらアウトだなと気をつけるようにはしてます、できるだけ、ていう。

 ひとつの科目の中を解剖してみると、理論的な柱やそれを細かく支える根の束とそこから伸びる枝葉、というのがあるとして、それだけでなく、ふわふわとまとわりついたり合間を満たす事例実践や応用派生というのが充満してくれてる。という感じなんだけど、理論の柱もふわふわの雲のほうも、その科目内で単独で存立してるわけではなくて、ここでは司書資格の科目のことで言うと、他の科目との関係とつながりの中でひとつの構造物を築き上げてるわけなので、他科目とのあいだには棲み分けや接続やなんやが当然あるわけだから、一科目だけスクショで切り取って見てみてもそこにはなんらかの体系性は認められるんでしょう。

 なんだけどそういう話だけではなくて、切り取った科目にしろ、複数科目で築いている構造物にしろ、その外側にはなんらかの世界があって、その世界の中で存在しているし、世界と繋がってるはずだよなと。
 司書科目を前提にして考えると、一科目も課程全体も、実務と接続するだけでなく、その先の社会全体と接続しているし、また一方で、その学問分野全体と接続し、ひいては科学全体と接続している、はずだし、そうじゃないとなんのためにやってんだっていう話になっちゃいますよね。

 あたしの講義中の口ぐせのひとつで、「何のためにこの話をしてるかと言うと」、というのがあります。
 単におもろいから、とか、教科書に乗ってるからとか、規則や常識だから、とかじゃないんですよと。これが、実務の、というか社会の、科学全体の、どういうところにどう接続していてどう影響することになるから、だから理解して貰う必要があって話してるんですよ、と。
 受講する側の時間とコストという財産を部分的にも譲り渡されてる以上、あるいは自分だって別に対して割に合わないもののコストをかけてそういことをやってる以上、それがおもろいからだけや決まりだからだけでは、聞かせてるほうには申し訳ないし、しゃべってるほうも虚しいだけだなと。世界社会とこういうふうに接続しているということを、のべつまくなしに言い募るわけではないにしろ、いつでも保証できるようにしとかなきゃな、と。製造責任的ないみで。
 まあだいたい、世界と同接続するかがわかってなきゃ、ほんとうの意味でのおもしろみもないだろう、と思うわけですが。

 そういう、世界社会との接続を保証しながら話そうとするなら、体系を意識しないと、と思うので、一科目内の体系性というのはやっぱいるんじゃないかな、と思ったわけです。
 自宅から世界に出ていこうというときに、まず在来線や国内線に乗ることをわかってないと、国際線には乗れないからなあ、と。
 もちろん、タクシーや高速バスで直に国際線に乗りに行けばいいという人や、そんなことすら考えずバックパック担いで部屋を飛び出す人もいるように、体系なんか考えなくたって世界と接続できるし受講者にもそれを伝えられるよというやり方の人もいると思うんで、それはそれでいいとは思うんですが、まあ、あたしはそれだと座りが悪いというか、接続を保証できてない気がして、どうしても意識もするし理解もしてもらうようにしてる、という感じです。