ごあいさつ2024→2025 附:「司書としてのやりがいは、もう無い」

 2024年もいろいろとお世話になりました。
 2025年もまたよろしくお願いいたします。

 さて問題です。

 問1
 「休日やプライベートでも司書の仕事に近いことや勉強をやるのは、どういうモチベーションからですか?」

 問2
 「司書の仕事の、どのようなことにやりがいを感じていますか?」

 人前に立ってしゃべることをやったりしていると、年若の人から不意にクイズを出題されることがよくあって、具体で細かいトリビアならまだしも、図書館とは何か司書とは何かのような、超難問でありながら頻出のものまで。上記2問あたりは後者の派生形で、これもまあまあの頻出のように思いますが、もちろんこれらは生涯かけて繰り返し考えをアップデートしていくようなジャンルの問いではあるものの、年若の人たちが居並ぶ前で、「さあ、お答えください」と、期待と品定めのないまぜのような熱くも厳しい目で見つめられながら、数秒のシンキングタイムしかない中で、瞬時に脳をフル回転させ、過去にいろんな立場・いろんな業種・いろんな国の人たちの話を聞いたり話しあったりした中で出てきたエッセンスのようなものを、自分なりにぎゅうぎゅうに凝縮して、回答を導き出す。もちろん正解はないので、常に自問自答を繰り返すことになるわけですが、ちょうど今年は上記2問を問われて答えたり考えたりしたことがあったので、現時点でのその考えを年越しの一里塚として記しのこすというものです。

 というのも、しばらく前からの自分の考えというか納得事項として。
 「ライブラリアン」とは、文献・情報の持つ力(パワー)を信じて、その媒として社会に向き合う、そういう姿勢のことなんだと。
 つまり、”社会とどういう姿勢で向き合う人”かを示すものであって、所属とか職業とか資格や専門性の有無等は本質的な問題ではない、というふうに理解納得し、また問われればそう述べるようにしています。

 よく司書の専門性を医者や弁護士を引き合いに出して云々という言説があったりしますが、どちらかというとジャーナリズムとジャーナリストのあり方になぞらえたほうがいいのかもな、と。
 余談、「文献・情報」に「文芸」を加えるかどうかは迷うというか極私的には入れたい気持ちはあるものの、これは人によって意見がわかれるというか、加えちゃうと一気に向き合い方が限定的になってしまいそうなので、保留。
 余談2、「しばらく前から」egamidayさんはそう考えてるらしいですが、Twitterでの初出は2022年5月5日だそうです、Twilog復活感謝。

 文献・情報の持つ力を信じ、媒となるという立場で、他業種の人々や市井・シチズンの人々と向き合い、社会構造や世界人類・森羅万象と向き合う。
 そういう人やそういう姿勢をライブラリアンなりライブラリアンシップなりと言うとしたら。
 ライブラリアンは図書館にいるだけではなくて、学校や市役所にもいるかもしれないし、商店街やカフェにいるかもしれないし、議場や道端にいるかもしれない。ユビキタスたり得るし、ユビキタスたれ、と思います、そういう社会であってほしいとそう言えば前々から思ってたなあ。
 1日のうち5分だけそういう姿勢で社会と向き合う人もいれば、365日中366日ずっと身構えている人もいる。向き合い方も、薄かろうか深かろうがそれは程度の問題であって本質じゃないし。
 所属職業としての図書館員や、資格所持者としての司書がどうこうよりは、ライブラリアンシップにもとづくライブラリアンのあり方をマインドの問題としてとらえれば、そういうことになるのかな、と。

 そう理解納得した時に、ああだったら自分は、生涯ライブラリアンたろう、と。「生涯ライブラリアンします」と。
 それは意志をもってそうしようというのではなく、そうあることが自分にとってもっとも自然なあり方なんだな、と得心した感じです。

(念のため、これはあくまで自分にとってそうだという話に過ぎず、どんなプロにもあなたにもこなたにもそれを求めたいとか”べき論”とかではないですので、こいつなんか言ってんなぁ、くらいに見といてください)

 ということをふまえて問1を考えると。
 ライブラリアンとして社会に向き合ったときに、自分がやりたいこと、やるべきこと、やらなければならないとされることのようなもののうち、職業上、仕事として、業務時間内と所属内の立場の範囲でできることというのは、極々一部でしかない、100あるうちの5だったり10だったり-20だったりするので、休日なりプライベートとしてさらにそれをやる、と。
 よく言われることですが、理想的な休日の過ごし方というのは、平日にできなかったけどやりたいことを活動的にやることですよ、というのがホントなら、まあ、そういうことです。もちろん、業務としてやるほうがコスパが高いだろうし、そもそも休日にやれることだってさらにその極々一部の牛の毛ほどでしかないわけですが、パフォーマンスの多寡なんてものはこれも程度の問題で本質ではないので。あるいは、もっと言うなら、自分は何もやることも姿勢も変えてやしない、たまたまそれが平日か休日かのちがいだけ、でも良いかと。
 何をやるかにしたって、別に研究会や学会に出たり”いかにも司書っぽい”ことだったりに限ったことじゃない。シンプルに本を読むこと、勉強すること、同業者や他業者の人たちと話をしたり話を聞いたり、何かを実践する、体験する、政治や社会に向き合う、展示を見たり街を歩いたり旅に出たりして、その知見をブログに書いたりSNSで発信したり文献に残したり。もう少し具体的には、貸棚書店の棚主として人と本との接点(まったくちがう場所での媒)になってみたり、オンラインで日本と欧州とでクロストーク(これも媒)をしてみたり。
 それは、見かけ上は種々雑多かもしれませんが、自分にとってはつまるところ同じこと・同じ姿勢なわけです、直接であれ間接であれ。

 そうなってくると、問2の「やりがい」問題なんて正直答えようがなくなってしまっており、あたしはこれを実際リアルに問われたとき、ふと口をついて「やりがいは、もう無いです」と答えてしまいました。
 これがたぶん、もう少し自分も経験が浅かったら、利用者に喜んでもらうことです、社会貢献できることです、文化資源を未来にのこしてつたえていくことです、みたいなことを自分なりに言語化するだろうし、実際そんなことを言ってたと思うんですが。
 いまとなっては、もうそれらのどれもこれも、言語化できるほどの距離のある存在じゃなくなっちゃったんだろうな、と。そういうことをやりがいとして思わなくもないんだけど、そのやりがいなりモチベーションがなくなってしまったとしたら、もうこの仕事をやらなくなるなんてことはない。自分のやりたいこととこの職業とが既に境目無く融合し、ただ己の欲するところにしたがってるにすぎない、という感じです。(念のため、それが良いか悪いかはまったく別の話です。あと、心身の健康には留意しましょう。)
 なので、「やりがいは無い」と「やりがいしかない」が同義だと言ってもよい。

 まぁそういう自然体モンスターが窯変してしまった、ということでどうでしょう。
 そこまでいくとあんまり人様の参考にはならないと思うんですが、そこまで難しく考えることなく、365日のうちの5分でも3日でも200日でもいいので、社会への向き合い方としてのライブラリアンというものをご自分の中にインストールしてみてはどうか、と思います。

 なお、じゃあそもそも、そのライブラリアンの媒としての機能にはどういう社会的な意味があるのか、という問題、いやそっちこそが肝心だろうともちろん思うわけですが、議論として分けた方がいいだろうし、年末年始の慌ただしい時期なので、また別の話ということで。

 なお言うまでもないことではありますが、「生涯ライブラリアンします」というフレーズは、大泉洋の人からの文芸的継承であることを、念のため述べ添えます。

2024年12月のまとめ

●12月

・紅葉@粟生光明寺、萬福寺
・本編にさしかかる「光る君へ」
・『リライト』、オチ近くまで読んでから、実は既読だったという衝撃の事実が発覚
・西陣麦酒HazyIPA
・紅葉@高山寺
・「日常記憶地図 堀川・大宮・千本編 1950s–1970s」@余波舎ブックス
・年休強制取得の日々
・柿の博多押しを探す日々
・図書館案内ツアーの日々。相手によってプレゼン内容を変えていくスタイルのツアーガイド。
・ヨーロッパ企画のまたとない夜 第4夜 SSMF2024慰労会、東京本戦直後の宴
・人生の選択クイズ。解答:急ぐ必要はない。
・クリスマス前の祝日の朝といえばジンジャーブレッドラテ
・年末大掃除を執行中
・「光る君へ」ファイナル、菅原孝標女の尊いシーン
・「若草物語」
・The last day of イノウエさん’s lunch。ありがとうございました。
・リプレイスによる新端末との格闘の日々、業務がすすまない…
・『モンテレッジォ : 小さな村の旅する本屋の物語』
・「歌川国芳展」@大阪中之島美術館
・ブックカフェ上方演芸
・『ようやくカナダに行きまして』
・『V3』スペース
・宅配ボックス
・「妹の夫」(『ミステリ・トランスミッター』)
・「新宿野戦病院」
・年末恒例カツオの会(注:職場整備しつつ)
・『図書館を学問する : なぜ図書館の本棚はいっぱいにならないのか』、字の小ささのためいったん積ん読
・「ボクらの時代」、ゆうちゃみ・ぱーてぃーちゃん信子・エルフ荒川
・約20年ぶりにヨーロッパ企画カウントダウンイベントが無い年越しのため、どう過ごしたらよいかわからず戸惑っている。